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壊滅した京都最大の遊郭「五条楽園」は10年でどう変わったのか【下京区】

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奈良と並び、日本の二大古都として知られている街、京都。関東在住の方であれば一度は修学旅行で行ったことがあるだろうし、関西在住の方であれば何度か観光に行ったこともあるだろう。実際、この土地の文化・歴史の蓄積には目を見張るものがあるし、それを求めて多くの観光客が訪れてくるのも納得だ。事実、取材班もこの地にはまった人のうちの一人だ。近年では外国人観光客の増加により、「観光公害」という言葉まで出てくるなど、世界的観光地であるがゆえの問題も噴出し始めてきている。

しかしその一方、世界的観光地・京都にあるにも関わらず、観光客に知られることのないままその歴史に幕を閉じ、その存在まで消されてしまった場所が中心地のすぐとなりに残っているというから驚きだ。今回は、そんな闇に葬られた元遊郭、「五条楽園」なる場所をご紹介する。

五条楽園の歴史

五条楽園 

五条楽園は、江戸時代後期から2011年にかけて繁栄した京都市内最大の遊郭地帯のことだ。もともと、江戸時代後期から明治時代にかけて「五条橋下(五条新地)」「六条新地」「七条新地」という隣接して並ぶ3つの遊郭が存在し、これらの遊郭が大正時代に合併し「七条新地」という名前で(先ほどの七条新地とは異なります。なお、混同を防ぐため、今後は「五条楽園」で統一させていただきます。)成立した。

遊郭とは?

(質問)遊郭とは何をするところだったのですか? お願いします

(回答)今で言う風俗店。最下層は安いソープ。最高峰は料亭と銀座クラブと寄席と高級ソープを一緒にした所。一般的なイメージは後者ですかね。

Yahoo!知恵袋より引用)

京都の遊郭といえば、東京(江戸)の吉原大阪の飛田と並んで日本三大遊郭として栄えた「島原遊郭があるが、島原はどちらかというと富裕層向けの高級遊郭、ここ五条楽園は庶民向け遊郭として栄えたと言われている。

京都最大の遊郭として栄えた五条楽園。大正時代には三階建ての建造物が立ち並ぶようになり、今でも多くの観光客でにぎわう祇園よりも栄えていたというから、その規模の大きさ・人出の多さがわかるというものだ。

五条楽園が通常の遊郭と異なる特徴として、「お茶屋」と呼ばれる店舗で性風俗を扱っていた、という点が挙げられる。一般に、お茶屋では飲食を楽しみながら舞妓さんのパフォーマンスを見る、という形態のお店が多い。しかし、ここでは芸妓のみならず娼妓も取り扱いをしていたという。そのため、「お茶屋」という名称にも関わらず、旅館のような構造をしていた(←これ重要)そうだ。ドリンクを出すことで飲食店の体をしている飛田新地みたいでおもしろい。

五条楽園

1958年の売春防止法施行後は、かつての「七条新地」から「五条楽園」へと名前を変え、芸妓を中心にしつつ性風俗も提供する、という形で営業を続けていた。しかし2010年、京都府警により摘発が行われ、合計5名の経営者が売春防止法違反容疑で逮捕。これを機に五条楽園は急速に衰退し、現在では遊郭として機能しなくなってしまっているようだ。

五条楽園の現況

そんな五条楽園だが、営業停止から10年が経った今、五条楽園はどう変わってしまったのか。ここからは、2021年現在、五条楽園はどういう状況にあるのか、写真とともにお届けする。

清水五条駅

五条楽園の最寄りは、京阪電車の清水五条駅。そこから鴨川を超える橋を渡り、橋を渡ったすぐの角、出光のガソリンスタンドのある場所の手前を曲がったところにある。全体的にこのような風俗街は場所の割にアクセスがやや難しい印象が強いが、それに関してはここも変わらないようだ。

五条楽園 五条通側入口

赤色の橋を渡ったら遊郭への入口だ。なぜ赤色なのかというと、もともとここが赤線地帯として機能していたからだ。この赤い橋は、その頃の面影を深く残している。

なお、もともとは橋の手前に「五条楽園」と書かれた看板が掲げられていたそうだが、現在ではその看板も撤去されてしまっており、もはや遊郭としての歴史が終わってしまったことを暗に示している。

注)赤線とは

日本で、1957年(昭和32年)の売春防止法施行以前に公認で売春が行われていた地域の俗称。(中略)戦前から警察では、遊郭などの風俗営業が認められる地域を、地図に赤線で囲んで表示しており、これが赤線の起源であるという。

Wikipediaより引用

五条楽園

五条楽園と呼ばれたエリアの中はまさに別世界。いったいいつ建てられたのかもわからない建物がずらーっと高瀬川沿いに並んでいる。今では半分廃墟状態になっているのが非常に残念だ。

五条楽園 本家三友

川沿いの道を少し歩くと、いかにも遊郭にありそうな雰囲気を出す立派な建物が現れる。こちらはありし日の五条楽園を代表するお店、「本家三友」の建物だ。かつてはここもお茶屋のひとつとして営業をしていたものの、今となっては入口は柵で囲まれ、もはや原形の姿を残すだけで精一杯のようだ。

※2021年11月、解体されていました。

五条楽園 遊郭

五条楽園内には、先ほどの「本家三友」や上の写真の建物のように、戦前に建てられた荘厳な遊郭建築が今も残されている。しかしながら、今ではただの一般住居の一つとなってしまっており、朝早くに訪問したこともあってか、ゴミ袋が置かれていたりするなど、京都であろうとやはり文化そのものは現代化しているようだ。

五条楽園 南側入口

赤線地帯南側の入口までやってきた。もともとは、ここが五条楽園のメインゲートだったようで、北側の入口に比べても立派な橋が架かっている他、木などの装飾も心なしか「遊郭っぽい」雰囲気を醸し出している。なお、奥にある「サウナの梅湯」だが、こちらは今も現役の銭湯として営業を続けているそうだ。お風呂屋さん(意味深)ではないので注意。

余談だが、銭湯のとなりにあるこちらの建物について。遊郭とは思えないこちらのコンクリート造の建物だが、こちらは893の事務所となっている。現在機能しているのかどうかはわからないが、くれぐれも安易なことはしないように。

京和民宿

そんな五条楽園エリアだが、最近ではこんな夜遊びエリアにも観光客急増の影響が表れてきているようで、街を歩いていても至るところに民宿やレストランといったいかにも観光客ウケを狙った施設が大量に作られており、京都の観光公害問題はこんなところにまで波及していたのかと驚きを感じてしまう。もっとも、朝早い時間だったので営業していませんでしたが。

五条楽園 平吉

こちらの「平吉」さんなんて、明らかに遊郭にしか見えないにも関わらず、その実態はねぎ料理専門店だったりする。しかも食べログを見てみると、結構評判が良かったりするからおもしろい。そこそこお高いにも関わらずだ。見たところかなりの人気店のようなので、訪問の際にはぜひご予約を。

この五条楽園、最近では再開発も進み始めてきているようで、こんなチェーン系ホテルまで進出してしまった。こうやって日本からまた一つ、また一つと素晴らしい風景が消えていくのか・・・と残念な気持ちになってしまう。

五条楽園 悲母観音

そんな激変期の中にいる五条楽園だが、現在でも悲母観音が小さいながら高瀬川沿いに残されており、ここに遊郭があったということをここに伝えている。

遊郭の中にあの大企業の旧本社が・・・

明るい印象のない五条楽園だが、こんなところに世界的大企業の本社が実在していたというから驚きだ。それがこちら。

五条 任天堂旧本社

一見遊郭の1つかと勘違いしてもらうこの怪しい建物だが、実はこの建物、任天堂の旧本社なのだ。現在は京都市南区に本社を移転する同社だが、そのもとはこんなところにあったのだ。

「トランプ・かるた」「製造元 山内任天堂」という文字が、当時ここに任天堂があったことを伝えている。任天堂の前に書いてある「山内」という文字は創業者の山内房治郎から取ったもので、ここは任天堂創業の地であることからこんなプレートが書かれているらしい。

ちなみに、この社屋は1930(昭和5)年に建てられたもので、任天堂が1934年に市内の別の場所に移転するまで本社として使っていたものだそうだ。短い期間ではあるが、確かにここは本社として使われていた。

なお、この本社屋だが、2021年夏ごろをめどにホテルへとリノベーションが行われる予定となっている。安藤忠雄建築事務所が設計を監修し、20の客室や結婚式場、レストランなどを整備し、一部増築をした上で開業する予定だとのこと。

失われた街、五条楽園。任天堂旧本社のリノベーションとともに、この街はこれからどう変わっていくのか。今後の展開が楽しみでならない。

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